2009年11月21日
■ Alan Skidmore: The European Years (1977-1983)

ヨーロッパ時代のアラン・スキッドモア
(存在しないCD復刻シリーズのためのライナーノーツ)

 イギリスのテナー・サックス奏者アラン・スキッドモアのキャリアには、70年代後半から80年代にかけて、大きな空白があると考えられてきた。この沈黙期間を経て、彼の音楽には「かつての切れ味がなくなった」と評する人もいる。だが、スキッドモアがその間、まったくの新天地に活動の場を移し、さまざまな名義で10枚近いアルバムを発表していたとしたら? そこには以前にも増して熱く研ぎ澄まされた、炎のような演奏が記録されているとしたら? 
 このシリーズは、再発売もCD化もされたことのないこれらのアルバムを録音順に集大成し、アラン・スキッドモアという稀代のジャズ演奏家の真価を、改めて世に問うためのものである。


[1] European Jazz Quintet
"Live at Moers Festival" (Ring/Moers Music MOMU 01018)

rec. 1977/05/29
Alan Skidmore (ts), Gerd Dudek (ts), Leszek Zadlo (ts),
Ali Haurand (b, perc), Pierre Courbois (ds, perc)


[2] European Jazz Concensus
"Four for Slavia" (MRC 1C 066-32 855)

rec. 1977/06
Alan Skidmore (ts, ss), Gerd Dudek (ts, ss, shenai),
Adelhard Roidinger (b), Lala Kovacev (ds)


[3] Skidmore/Dudek/Roidinger/Kovacev
"Morning Rise" (Ego 4006)

rec. 1977/09
Alan Skidmore (ts, ss), Gerd Dudek (ts, ss),
Adelhard Roidinger (b), Lala Kovacev (ds)


[4] European Jazz Quintet
"European Jazz Quintet" (Ego 4012)

rec. 1978/11
Alan Skidmore (ts, ss), Gerd Dudek (ts, ss), Leszek Zadlo (ts, ss),
Ali Haurand (b, perc), Pierre Courbois (ds)


[5] Alan Skidmore/Tony Oxley/Ari Haurand
"S.O.H." (Ego 4011)

rec. 1979/02
Alan Skidmore (ts, ss), Ali Haurand (b), Tony Oxley (ds)


[6] SOH (Skidmore/Oxley/Haurand)
"SOH" (View VS 0018)

rec. 1981/04/25
Alan Skidmore (ts, ss), Ali Haurand (b), Tony Oxley (ds, perc)


[7] Third Eye
"Third Eye Live!" (View VS 0021)

rec. 1982/01/13
Alan Skidmore (ts), Wilton Gaynair (ts), Kenny Wheeler (flh),
Rob van den Broeck (p), Ali Haurand (b), Tony Levin (ds)


[8] European Jazz Quintet
"III" (Fusion 8010)

rec. 1982/02/16
Gerd Dudek (ts, ss), Leszek Zadlo (ts, ss), Alan Skidmore (ts, ss),
Ali Haurand (b), Pierre Courbois (ds)


 本シリーズは以上8枚から成るが、ぜひ追加しておきたいものとして、2007年に発掘リリースされた下記のCDがある。録音順からいっても、これが(今のところ)この時代の最後の1枚ということになる。

[9] S.O.H. (Alan Skidmore/Tony Oxley/Ali Haurand)
"Live in London" (Jazzwerkstatt JW 016)

rec. 1983
Alan Skidmore (ts, ss), Ali Haurand (b), Tony Oxley (ds, perc)
amazon.co.jp


 1942年生まれ、ロンドン出身のアラン・スキッドモアは、英国トラッド・ジャズのサックス奏者ジミー・スキッドモアを父に持ち、十代でプロ活動を開始。65年にアレクシス・コーナーのグループで録音デビューする。ジャズ演奏家としては、69年から72年にかけて20枚以上の先鋭的アルバム(自身のリーダー作2枚を含む)に参加。台頭する英国ジャズ新世代の逸材として注目された。
 74年にはジョン・サーマン、マイク・オズボーンとともにサックス・トリオ S.O.S. を結成。75年からはエルトン・ディーンのグループ Ninesense に参加し、やがて双頭アルバム『El Skid』(エルトン+スキッドモアの略)の制作に至る。だがこれを録音した77年を最後に、イギリスのジャズ界からアラン・スキッドモアの姿は消えてしまう。「カムバック作」として知られているのは、88年に録音された18年ぶりのリーダー作『Tribute to 'Trane』である。

 だがこの間、スキッドモアは音楽活動の中心を西ドイツに移していた。ベース奏者アリ・ハウランド(1943年生まれ、ドイツ出身)と組んで、ハウランドが始めたヨーロッパのジャズ演奏家のゆるやかな集合体(現在はユーロピアン・ジャズ・アンサンブルと名乗っている)に参加。6年の間に、自らがリーダーもしくは共同リーダーとなる上記のアルバム8枚を次々に録音する。これらはいずれもミュンヘンやハンブルクやベルリンのマイナー・レーベルから発売されたため、ヨーロッパ・ジャズのファン以外にはほとんど知られることがなく、他国盤が出ることもなかった。

 追加の1枚を含めた9枚のアルバムは、3つのグループによって録音されている(1枚を除く)。

 テナー・サックス+ベースとドラムズのトリオ「S.O.H.」で3枚。
 テナー・サックス2本+ベースとドラムズのカルテット「ユーロピアン・ジャズ・コンセンサス」で2枚。
 テナー・サックス3本+ベースとドラムズのクインテット「ユーロピアン・ジャズ・クインテット」で3枚。

 要するに、ホーンもピアノも抜きで、無骨なまでにテナー・サックスの可能性を追求した編成ばかりということになる。残る1枚は、ピアノ入りのグループ「サード・アイ」だが、スキッドモアによるメンバー紹介を聞く限り、ここでも共同リーダー的な役割を果たしたようだ。

 アルバム [5] [6] [9] の S.O.H. は、スキッドモア、オクスレー、ハウランドの頭文字を取ったトリオ。泣く子も黙る英国フリー・ジャズのトップ・ドラマー(のひとり)トニー・オクスレー(1938年生まれ、イギリス出身)と、多彩な技を持つアリ・ハウランドのベースをバックに、スキッドモアがワン・ホーンでじっくりと吹きまくる。スキッドモアの語彙、構成力、集中力がもっともよくわかる編成。他のアルバムはサックス奏者が複数いるため、気を抜いて聴いていると誰のソロだかわからなくなるが、その点この3枚はわかりやすく聴きやすい。

 アルバム [2] [3] はユーロピアン・ジャズ・コンセンサス。 [3] はメンバー4人の名義だが、同一グループと考えていいだろう。アラン・スキッドモアと、独フリー・ジャズ第一世代として活躍したゲルト・デュデック(1938年生まれ、ドイツ出身)がフロントに並ぶ双頭グループだが、録音はこの2枚しか残されていない。ベースは、このころよく山下洋輔と共演していたアデルハルト・ロイディンガー(1941年生まれ、オーストリア出身)。アタックの強いドラムズでフロントを煽るララ・コヴァチェフは、ユーゴスラビア出身で、ビッグ・バンドを中心に50年代から活躍してきたベテランだという。この2枚のアルバムで聴ける東欧的なエキゾティズムも、コヴァチェフの存在と関連がありそうだ。

 アルバム [1] [4] [8] のユーロピアン・ジャズ・クインテットは、ヨーロッパ時代のアラン・スキッドモアが、もっとも長期間(少なくとも6年間)維持することのできたグループ。スキッドモア、ゲルト・デュデックに、レスゼク・ザドロ(1945年生まれ、ポーランド出身)を加えたフロントで、3人全員がテナーとソプラノ・サックスを持ち替えながら、ヘヴィ級の演奏を聴かせてくれる。ベースはアリ・ハウランド。サックス3人の大暴れを前に一歩も引かないドラムズはピエール・クールボワ(1940年生まれ、オランダ出身)。クールボワは、ギュンター・ハンペル・グループとフリー・ミュージック・クインテットでESPレーベルに録音を残したあと、自らのグループ、アソシエーションP.C.を結成した、勃興期のフリー・ジャズとジャズ・ロックの両方に足跡の残る重要人物である。
 サックスの3人がそれぞれソロをとるだけでなく、サックス・アンサンブルとして集団即興の可能性が追求されているのもこのグループの聴きどころ。スキッドモアがかつてマイク・オズボーン、ジョン・サーマンとともに結成したグループ S.O.S. の発展形と見ることもできる。シンセサイザーや多重録音を駆使する S.O.S. の音楽性は、(その後の3人の活動を考えると)サーマンの主導だったように思われがちだが、スキッドモアもサックス3人という編成にこだわりがあったのではないか。

 アルバム [7] のサード・アイは、ベースのアリ・ハウランドのグループで、ここではゲストとして、ケニー・ウィーラー(1930年生まれ、カナダ出身)、ウィルトン・ゲイナー(1927年生まれ、ジャマイカ出身)が加わっている。
 ちなみに、この時のピアノはロブ・ヴァン・デン・ブルック(1940年生まれ、オランダ出身)、ドラムズはトニー・レヴィン(1940年生まれ、イギリス出身)だが、これにアラン・スキッドモアとゲルト・デュデックを加えた5人が、現在ではユーロピアン・ジャズ・クインテットの名を引き継いでいる。そう、驚くなかれ、彼らは2009年の今も全員が健在で、一緒に演奏活動を続けているのだ。

 ここから先はまったくの推測になるが、アラン・スキッドモアが「ヨーロッパ時代」を過ごすことになった理由を考えてみたい。

 イギリスで、シリアスなジャズの担い手として60年代末に登場したスキッドモアは、同世代の僚友たちとともに注目を集め、いきなりデッカ、フィリップスという二大メジャー・レコード会社で自身のリーダー・アルバムを制作する幸運に恵まれる。
 ジョン・コルトレーンの音楽に大きな影響を受け(エルヴィン・ジョーンズとはのちに親交を結んでいる)、69年にはアート・アンサンブル・オブ・シカゴと共演し、70年にはソフト・マシーンの、71年にはウェザー・リポートのホーン・セクションとして録音やツアーに参加したスキッドモアは、これらの多彩な経験を次作に生かせるはずだった。だが、70年代の音楽産業は巨大化、寡占化の一途をたどり、メジャー・レーベルにシリアスなジャズの居場所はなくなってしまう。

 端的に言えばジャズでは食えなくなったわけで、同世代の仲間たちも、アメリカで成功したジョン・マクラフリンや、のちにECMの専属アーティストになるジョン・サーマンを除けば、みな自主独立の活動へと沈潜していくことになる。
 そんな中では、ジャズ以外のライヴやスタジオの仕事をコンスタントに続けていたスキッドモアの状況はまだましなほうだったかもしれない。デビュー以来一貫して、英国R&Bシーンでの演奏、ポップスのスタジオ録音に参加しており、『ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン』のサックスも、ケイト・ブッシュの「サキソフォン・ソング」のサックスも、40年前からジョージー・フェイムのバンドでサックスを吹いているのもスキッドモアなのだから。

 レコード業界の大きな変化にともなう70年代のこうした苦況は、イギリスだけに限らず、またジャズだけに限らず、多くの音楽家が経験したものだろう。そうした中にあって、30代なかばのアラン・スキッドモアが、経済的な安定よりも音楽家としての発表の場を求めて、新天地に活動の中心を移した――移さざるを得なかった、というのが「ヨーロッパ時代のアラン・スキッドモア」の真相なのではないか。
 60年代末から音楽祭などでたびたび西ドイツを訪れていたスキッドモアは、同地に熱心なフリー・ジャズ愛好家の多いことを知っていたし、ロルフ・キューンやフォルカー・クリーゲルのアルバムに参加したことで、ヨーロッパの演奏家との切磋琢磨も経験済みだった。 [1] を聴くとき、そこに新たな仲間と聴衆を得て好きな音楽に邁進できる喜びが溢れているように聞こえるのは私だけだろうか。

 あくまで個人的な体験だが、1984年の春から秋にかけて、ロンドンで数週間暮らした時、ロニー・スコッツ・クラブや100クラブに足繁く通ったが、アラン・スキッドモアの姿や名前をついぞ見た記憶がない。もちろん当時はまだスキッドモアのことなど何も知らず、それどころか大勢のイギリスのジャズ演奏家をこのとき初めて知ったのだが、その中に地元っ子のスキッドモアがいなかったことは、今になって考えてみると不思議で、やはり完全にイギリスを離れていたのではないかと思える。

 86年ごろからロンドンのジャズ・シーンに復帰したスキッドモアは、その後、現在までに7枚のリーダー・アルバムをコンスタントに発表している。メジャー・レーベルと再契約する機会はついぞ訪れていないが、昨今の情勢では、音楽家よりも先にレコード会社のほうが消滅しそうである。そして例えば、アラン・スキッドモア・カルテットによって05年に録音されたジョン・コルトレーンの曲「Lonnie's Lament」は、24年前に S.O.H. で録音された同曲と、方法は違っても同じぐらいの感動で迫ってくるのだ。
 

2009年08月31日
■ 呪われたフィルムがうちにあるわけ(2)

 というわけで、ホラー映画の専門家でもなく、67年夏の伝説的テレビ放送を見ているわけでもなく、もちろんフィルム・コレクターでもない私が、「シエラデコブレの幽霊」のプリントを抱えて右往左往するに至った経緯を書いています。


 アメリカから届いたその段ボール箱には、16mmフィルムが2巻入っていた。フィルム缶は薄紫色の金属缶で、中央のラベルには「The Haunted」の印字があり、それぞれ「Pt.1」「Pt.2」の判が捺されている。フィルムを少しだけ引き出してみると、2巻目のリーダーに「Villa di Stefano」と刻まれていた。
 それを見てようやく緊張が解けたのをよく憶えている。「The Haunted」は「シエラデコブレの幽霊」のオリジナル題だし、「Villa di Stefano」はジョゼフ・ステファノの製作会社である。半信半疑のまま購入し、まったく別の作品だったら……と危惧していたわけだが、それがようやく75パーセントぐらいの確信に変わった瞬間だった。

 とはいえ、困ったのは16mm映写機がないこと。一昔前のように、図書館や学校に常備されているという時代ではない。あったとしても素人が適当に映写して、プリントを痛めてしまったら一大事である。そこでレジュメを作り、興味をもってくれそうなビデオメーカー数社に売り込んで、内容確認を兼ねた試写を打診したのだが、はかばかしい返事は得られなかった。そして、そうやって手をこまねいているうちに、「シエラデコブレの幽霊」の生みの親であるジョゼフ・ステファノの訃報が伝えられたのである。2006年8月25日のこと、84歳だった。

 その日、SFファン仲間の樫原辰郎さん(映画監督・脚本家)が、mixi日記でジョゼフ・ステファノの死を悼み、唯一の監督作である「シエラデコブレの幽霊」が見られない現状を嘆いていた。それを読んだ私はその場で樫原さんに電話して――
「あるんですよ」
「あるってなにが」
「だからその幽霊が」
「どこに」
「うちに」
という落語のようなやりとりの末、とにかくそれは映写してみなければ話にならないという結論になった。

 ここからが樫原さんの大活躍で、あっという間に、脚本家の高橋洋さんを巻き込み、京橋の映画美学校の試写室を借りて、映写のお膳立てを整えてしまった。忘れもしない9月24日(ステファノの死の1ヶ月後)、日曜の午後の人影もまばらな都心の、古めかしいビルの地下の一室で、内々の試写が行われたのだった。
 もしフィルムの中身が別物だったり、まともに見られない状態だったりしても、怒らないなら――という条件付きで、樫原さんと2人で友人知人に声をかけた結果、当日集まったのは25人ほど。われわれの世代に「シエラデコブレの幽霊」という作品の存在を教えてくれた書き手の一人である聖咲奇さんの応援を得たのも心強いことだった。

 結果として、それは確かに「シエラデコブレの幽霊」だったし、40年前のプリントにしては驚くほど保存状態もよかった。われわれは地下上映会を堪能し、正式DVD化に向けてビデオメーカーに働きかけていくべく気勢を上げたのだった。(この項まだ続く)


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2009年08月30日
■ 呪われたフィルムがうちにあるわけ

 そもそもの発端は2004年のこと。WOWOWの名物プロデューサーである渡邉数馬氏から連絡があり、ある作家の選んだ映画特集というのを企画しているという。ところが、怪談やホラー映画に非常に造詣の深いその作家の希望リストには、『本所七不思議』(1937)といった幻の映画がずらり。頭を抱えた渡邊氏は、1本だけ混ざっていた洋画を何とか発掘できないかと問い合わせてきたわけだが、それが「シエラデコブレの幽霊」だった。

「それは有名な幻の映画で、正体は不明、プリントが現存しているという話も聞いたことがない」と回答し、企画の話はすぐに立ち消えになったのだが、個人的に気になったので調査を続けることに。わがホラー映画指南役である殿井君人さん比呂さんにも相談し、資料を漁るうちに、少しずつ内容や製作の経緯、伝説化した事情が判ってきた。こうなるといよいよ見たくなるわけで、海外のビデオ収集家などにも照会メールを出したが、そのときは空振りに終わった。

 ところが、それから幾星霜、すっかり忘れたころになってメールが返ってきた。それらしき作品のフィルムを、知人がeBayに出品しているというのだ。売り手は米北東部の人間で、他にも古いフィルムやカメラ、撮影機材を多数出品しており、そういった関係の業者なのだろうと思わせる。米国内限定で競売に付されたそのフィルムは、指定の価格に達せず、結局eBayでは落札されなかった。

 そこですかさず交渉に入ったわけだが、さすがに考えましたね。VHSでもDVD-Rでもなく、16mmプリント! フィルム・コレクターという人士がいるのは知っていても、それは杉本五郎とか芦屋小雁といった雲の上の人々の話で、自分がフィルムを買うことなど想像したこともない。しかし、こればかりは仕方がない、この機会を逃したら幻の映画が幻のままになってしまう(かもしれない)。このときばかりは苦手の英語メールにも力が入り、もう一人いるという買い手(オーストラリアの人だったらしい)との熾烈な争いを経て、翌週にはもうフィルム缶の入った段ボール箱と対面していたのだった。(この項さらに続く)
 
 

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2009年08月28日
■ 探偵ナイトスクープ

 朝日放送の番組「探偵ナイトスクープ」に協力し、ちょっとだけ出演もしました。朝日放送では今夜放送されます。

8月28日(金)午後11時17分から(朝日放送など)

 私は2週間後の東京放送まで見られません。

9月11日(金)午後11時30分から(TOKYO MX)


 公式サイトの「次回の見所」から引用します。
http://www.asahi.co.jp/knight-scoop/

> 3.『史上最高に怖い映画』田村裕探偵
> 東京都の男性(25)から。今から44年前、1965年にアメ
> リカで制作された“シェラデコブレの幽霊”というホラー映画は、
> その試写版を見たアメリカのテレビ局幹部が、あまりの恐怖から
> 嘔吐したといわれ、ついには「恐すぎる」という理由で、アメリ
> カ本国でお蔵入りしたとか。ある本でこの作品を知ったが、今で
> はとても入手困難と書かれていた。なんとか、その“シェラデコ
> ブレの幽霊”を探し出し、観賞させて頂きたい、というもの。


 番組の構成が最終的にどうなっているのか判りませんが、公式DVD化のための良いきっかけになれば、と思って協力しました。テレビ放送の影響力は非常に大きいので、予想を超えた反響があると思います。この件、続報します。
 
 

2008年08月22日
■ 映画秘宝10月号

 8月20日発売の雑誌「映画秘宝」10月号では、連載コラムで新作映画『スカイ・クロラ』について書きました。連載84曲目に取り上げたのは、チャカ(元PSY・S)の歌う劇中歌「sail away」です。

映画秘宝2008年10月号

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 映画のためのオリジナル新曲を取り上げることはほとんどないのですが、『スカイ・クロラ』を見て予想外の感動を覚えたので、ぜひ評文を書いておきたかった、というのがまずひとつ。
 そして、てっきり既成曲だと思ったらオリジナル新曲だったので驚き(曲・川井憲次、英詞:坂本美雨)、サントラ盤を買って歌詞を見たら、映画のテーマと連係する内容だとわかって嬉しくなり、これは取り上げねば、ということになったわけです。

サントラCD『SOUND of スカイ・クロラ』 (2008)

amazon.co.jp
HMV(試聴可)

 私の「読み」は、この映画を否定する人のそれとも、肯定する人のそれとも違う、かなり極端なものですが、すでに見て何か感じるところがあったなら、ぜひ読んでみてほしいです。


映画『スカイ・クロラ』公式サイト
http://sky.crawlers.jp
 

2008年08月07日
■ 暑中お見舞い

 なにか涼しげな画像でもということで、こんなのはいかがでしょう。

Chocolate Milk "Action Speaks Louder Than Words"
(オランダRCA 10290 / 1975)

(クリックで裏面も見られます)

 チョコレート・ミルクはニューオーリンズで活動していた大所帯ファンク・バンド。最初の5枚のアルバムをアラン・トゥーサンがプロデュースしています。これは75年のデビュー・シングルですが、オランダ盤はピクチャー・スリーヴ付きだったのですね。絵がかわいいのでつい買ってしまいました。


 なかみの7インチはこんな感じ。
 


 チョコレート・ミルクが涼しい飲み物かどうかは微妙なところですが、彼らの音楽は、まさに夏向きの、ちょっと気だるい、田舎道を歩いているようなファンクで、今の季節におすすめです。
 CD化が進んでいないのが残念ですが、この曲の入ったファースト・アルバムはこれ。いちおうエロジャケです。

Chocolate Milk "Action Speaks Louder Than Words"

amazon.co.jp
 

2008年07月28日
■ へんな自転車

 

 なにが変かというと、ブレーキ/変速レバーが左右で違う。右(リア)がシマノで、左(フロント)がカンパニョーロ。右だけケーブルが外に出ているのが変で、握った感じもずいぶん違います。
 左が壊れてシマノ本社で修理ということになったとき、行きつけの自転車屋さんがとても親切な人で、店にあった中古パーツを仮に付けてくれたのです。カンパの変速レバーに初めて触りました!

 どこへ行くにもたいてい自転車で出かけます。東京23区内ぐらいなら、雨でなければ、フォーマルな用事でなければ、自転車で移動するのが当り前になっています。大した距離を走っているわけではありませんが、運動をしない身には体を動かす唯一の機会でもあります。

 自転車の最大の魅力は、その自由度の高さ。人に迷惑をかけず、自分も安全なら、どんな乗り方をしてもいい。もちろん「合理的な乗り方」というのはあるけれど、そうでないからといって誰からも文句は言われない。好きな自転車に好きなように乗ればいい。そんな自由が好きなのです。

 とはいえ、そんな私でもしないことはあります。


 絶対にしないこと

  • 車道を逆走する。
  • 暗くなってから、前照灯(白)、後照灯(赤)なしで走る。
  • 歩行者を驚かせたり、怖い思いをさせたりする。
  • 走りながらケータイを使ったり、携帯プレイヤーで音楽を聴いたり、傘をさしたり、編み物をしたりする。


 あまりしないこと

  • 歩道を走る。
  • ヘルメットとグローヴなしで走る。
  • 一方通行(自転車を除く)を逆走する。
  • 信号などで停車中に、サドルに座ったままでいる。


 できればしたくないこと

  • 夜走る。
  • 雨の中を走る。
  • 工事中の道路を走る。
  • 駐輪場以外のところに長時間停める。


 説明の必要な項目もあるかもしれませんが、日本の都市部で自転車に乗っている人なら、おおむね同意してくれるのではないでしょうか。