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2008年07月07日

 ■ 怒鳴門 茂(どなると・しげる)伝

「知らない奴とはピンポンしない方がいいよ」(和田誠訳)

 というのは、スチュアート・カミンスキーのミステリ小説『ロビン・フッドに鉛の玉を』における青年ドン・シーゲルのセリフ。若き日に卓球選手として活躍し、不況時代には賭けピンポンで食べていたこともあるというシーゲルの逸話を知っていると、にやりとしてしまう場面なわけだ。

 カミンスキーはそもそもドン・シーゲルへのロング・インタビューを評伝 "Don Siegel: Director" (1974) にまとめた映画評論家。40年代のワーナー・スタジオを主な舞台にした小説で作家デビューするにあたり、発想の原点になったドン・シーゲルを登場させたのは理の当然だろう。

 アルフレッド・ヒッチコックへのささやかな対抗心なのか、ドン・シーゲルも自作にちらっと姿を見せるのが好きな監督であり、『突破口!』で、マフィアの隠れ家でピンポンに興じる男を演じていたのは忘れがたい。『グランド・キャニオンの対決』にも、トレードマークの帽子とパイプ姿で映っているのでお見逃しなく。

 というわけで、今日からいよいよ特集放送が始まる。番組予告を見たら、『グランド・キャニオンの対決』(スコープ・サイズ)と『殺人捜査線』(ヴィスタ・サイズ)の絵が壮絶に美しくて涙が出そうになった。
 ここでひとつ訂正。前回のエントリーで「全作品オリジナル・サイズのHD新マスターで放送」と書いたが、『第十一号監房の暴動』のみ、オリジナル・ネガまで遡れず、HDマスター化できなかったそうである。これのみ独立系のアライド・アーティスツ作品なので、残念だが仕方がない。スタンダード作品(IMDbによれば1:1.37)なので、ノートリミングのオリジナル・サイズ放送なのは他と同じである。

 ドン(ドナルド)・シーゲルは、1912年10月26日、シカゴのウエストサイドに生まれた。両親はヴォードヴィルのマンドリン奏者だったが、音楽の通信教育事業を始めて成功し、ドンはニューヨークとシカゴを行き来しながら育った。家は中流のユダヤ人家庭だったが、本人曰くユダヤ人として育った実感はないとのことで、長じて無神論者になった。
 高校卒業後、両親に連れられてヨーロッパへ。ケンブリッジのカレッジで聖書研究を専攻し、卓球選手として名を上げ、ロンドンの王立演劇アカデミーでは演技を、パリではフランス語を学んだという。
 大恐慌ののち、バンドのドラマーとして客船で働きながら帰国。21歳のとき、無一文でロサンゼルスにたどり着き、とくに映画好きというわけではなかったが、叔父の口利きでワーナー・ブラザーズのフィルム保管庫に職を得た。
 ワーナーには結局14年間在籍し、その間にモンタージュ部や二班の監督として、『彼奴きゃつは顔役だ!』『壮烈第七騎兵隊』『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』『情熱の航路』『鉄腕ジム』『ヨーク軍曹』『カサブランカ』などなど、無数の映画のアクション場面を担当した。

 ドン・シーゲルの監督作のほとんどに共通している、明解な特長・美点が2つある。ひとつは「極端に経済的な撮影・編集の手法」というスタイル上の特長。もうひとつは「人を善悪で峻別しない態度」というテーマ上の特長。

 経済的なスタイルというのはつまり、ややこしいアクションを最少限のカット数で見せたり、ストーリーの一部を大胆に省略したりする技術で、これによって、もったいぶらずにずばっと物語る直截な語り口、暴力描写の鮮烈さといった、ドン・シーゲルらしさが生まれた。
 ワーナー撮影所のバックロットで、来る日も来る日も撃ち合いと殴り合いを撮り続けた経験が、このスタイルを作り上げたと言っていいだろう。

 ドン・シーゲルの映画には、冷酷無比の悪党、狂気の殺人者、愛よりも金を選ぶ悪女が、必ずといっていいほど登場する。彼らの多くは主人公よりも存在感があったり、事実上の主役であったりする(この世界では、善人であることよりもプロであることが重視され、悪人ではなくアマチュアが軽蔑されるのだ)。
 このテーマ上の特長は、脚本家やプロデューサーが誰であれ一貫しているのだから、ドン・シーゲル自身の人生観からきていると考えられる。両大戦間にヨーロッパで暮らしたコスモポリタンとしての経歴や、ブルジュワ家庭と底辺労働者の生活の両方を体験したことが、この一種の無常観、アメリカ人監督らしからぬ19世紀的な人生観を育んだのではないか。青春時代を過ごしたヨーロッパをその後ヒトラーが席捲したことも、影を落としているかもしれない。

 もうおわかりかもしれないが、クリント・イーストウッドがドン・シーゲルから影響を受けたのは、スタイル上の特長であり、テーマ上の特長は受け継いでいない。同じくシーゲルの弟子筋といわれるサム・ペキンパーに至っては、どちらも受け継いでいない。ドン・シーゲルという特異な監督の流儀は、やはり一代限りのものだったというべきだろう。

(この項まだ続く)
 

投稿者 chisesoeno : 2008年07月07日 06:29

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