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2007年02月28日
予想は24部門中10部門しか当たりませんでした。4割……ひどいものです!
そして、自分の予想がはずれまくったから言うわけじゃありませんが、今回のアカデミー賞の結果にはいささか、いや、かなり、がっかりさせられました。
かつて『グッドフェローズ』や『カジノ』で達成したことの、形骸化した、迷いの感じられる焼き直しにすぎない『ディパーテッド』。失敗作であっても、それなりに見どころや面白い工夫があるのは、さすがスコセッシというべきで、きらいになれない映画ではあります。
しかし、失敗の主要因である脚色が評価され、脚色賞のオスカーを獲得したことはまったく理解できません。『インファナル・アフェア』という物語の仕組みと美点を理解しないまま舞台を移し、それでいて独自の方向性を打ち出すこともしなかった脚色は、リメイクのあり方としては、もっとも怠惰なものでしょう。
そして、それよりもさらにがっかりさせられたのが、作品賞の結果。
他の4本のどれでもいい、『バベル』でも『硫黄島からの手紙』でも『リトル・ミス・サンシャイン』でも『クィーン』でも、どれが受賞しても、そのことによって、それぞれに意味のあるメッセージを発信することができたのに、それをしなかった。
メキシコ映画の野心作を、アメリカ製の外国語映画を、インディーズの小品を、イギリス人のためのイギリス映画を、ハリウッドは歓迎している、新風を呼び込もうとしているという姿勢をアピールできたはずなのに、もっとも後ろ向きで臆病な選択が勝った、そのことが残念でなりません。
授賞式自体は、うまくいったところといかないところがありましたが、全体に攻めの姿勢が感じられたのは良かったと思います。
司会のエレン・デジェネレスは開巻のトークで、辛辣なギャグに交えてさらりとマイノリティの存在を鼓舞し、一気に会場を味方に付けてしまったのはさすがでした(同性愛をカミングアウトしている人が司会をするのは初めて?)。ウィル・フェレル、ジャック・ブラック、ジョン・C・ライリーによる、コメディアンの哀しみを歌ったステージも最高だったし、スティーヴ・カレルのギャグも、プレゼンターの原稿のなかではピカイチで爆笑してしまいました。ジェリー・サインフェルドの話芸も久しぶりに見られたし、全体にコメディアンのがんばりが目立っていたと言えるでしょう。
映像の部では、脚本家の仕事を紹介する「ザ・プロセス」という短篇が、ナンシー・マイヤーズの編集で、古今のハリウッド映画のなかから作家・脚本家・新聞記者が描かれたものを選び出し、次から次へと短いカットをつないで見せるもので、なかなか面白かったです。もう1本の短篇「ポートレイト・オブ・アメリカ」が、マイケル・マンの編集とは思えないほど散漫なできだったのとは対照的でした。
がっかりしたのは、故人を偲ぶメモリアル・トリビュートの映像で、もっと胸を締めつけるよなものが作れたと思うのですが、例年よりも力のない出来でした。リチャード・フライシャーの代表作に『ソイレント・グリーン』をあげてくれたのは、私はうれしいけどそれでいいのか?とか、今村昌平のところで映像にずっと奥山和由の名前が出ていて、まるで彼が死んだみたいだったとか、いささか雑な作りだと思いました。
トム・クルーズをプレゼンターにして、引退したシェリー・ランシングに友愛賞がおくられたのは、2人を相次いで首にしたパラマウント経営陣に対するハリウッドなりの意思表示なのでしょうが、個人的には、ウィリアム・フリードキンが家庭で「ビリー」と呼ばれていることがわかって笑ってしまいました(ランシングの夫なので)。受賞者の家族といえば、ヘレン・ミレンの夫として、うれしそうなテイラー・ハックフォードが始終画面に映るのも微笑ましかったです。
エンニオ・モリコーネへの名誉賞授与は、クリント・イーストウッドという最高のプレゼンターを得たにも関わらず、釈然としないものでした。モリコーネの音楽を紹介した映像と、続くセリーヌ・ディオンのステージを見ると、あまりにも、情緒的なメロディの書き手としての側面ばかりが強調されており、結局のところ、モリコーネの前衛性はアメリカでは永久に理解され得ないのではないかという気がしました。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のテーマ曲に、新たにアラン&マリリン・バーグマンが歌詞を付け、クインシー・ジョーンズのプロデュースで作られたというセリーヌ・ディオンの“新曲”も、私にはどこが良いのかまったく理解できないものだったし、モリコーネ本人がこれを聴いて喜んでいるようにも見えませんでした。
ビル・コンドンが自ら演出したという『ドリームガールズ』の3曲メドレーのパフォーマンスは圧巻でした。ビル・コンドンもギレルモ・デル・トロもそうですが、受賞者がスピーチの中で監督を讃えると、本当にうれしそうだったのが印象的でした。2人とも、この日の受賞結果にがっかりせず、今後も自分の流儀を貫いてほしいです。
とりとめもなく書いてきましたが、じつは私がいちばん感心し、また考えさせられたのは、オープニングの短篇と、それに続く会場の演出です。
短篇はエロール・モリスの演出で、白を背景にしたシンプルな構図のなかに、今回ノミネートされている177人が次々に登場し、何かを言ったり言わなかったりするというもの。菊地凛子と辻一弘の登場がうれしく、人種・国籍の多彩さが目に見える形でわかるのが良かったし、「だけど受賞の栄光に輝くのは一部の人だけ」というペーソスも感じさせて、秀逸な出来でした。
そして、それが終わっていよいよコダック・シアターの会場内に場面が移ると、ノミネートされている人たちが全員、自分の席で立ち上がって、拍手喝采を受けているという演出の華やかさと楽しさ。司会者が登場し、今年はかつてなく国際的で多彩なノミネートになったこと、ノミネートされている人々、全員を讃えることが今年の授賞式の方針であることが示されて、胸が熱くなりました。
前回のエントリーで書きましたが、ノミネートは専門部会で決定され、最終選考は会員全員の投票で決まります。じつは、同業の専門家によって選ばれるノミネートこそが、6000人の多数決によって時の運で決まる受賞よりも、はるかに意味のあることなのではないか? アカデミー賞において、真に重要で、記録として重視されるべきなのは、受賞の成否ではなく、ノミネートされたことなのではないか? 今年の授賞式を見終わって、そんな気が強くしました。
『ディパーテッド』が作品賞や脚色賞を受賞したり、エンニオ・モリコーネが一度も受賞できないまま名誉賞を受けたことは、じつは大して意味のあることではない。マーティン・スコセッシが『レイジング・ブル』や『グッドフェローズ』の時にきちんとノミネートされていること、モリコーネが5回のノミネートを受けていることこそが、後世に残されるべき記録なのではないか?
私自身のアカデミー賞に対する見方は、これから大きく変わっていくような気がします。
投稿者 chisesoeno : 2007年02月28日 16:31
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